中国語は本当に発音が重要なのか

「中国語 発音良ければ 半ばよし」という言葉がある。この言葉は中国語教育の世界では知らぬ者のいないあの相原教授によるものだが、語呂が良いのと中国語学習における発音の重要性を端的に表していることで、広く伝わるようになった。

しかしながら、ここでは、あえてこの中国語学習の「常識」を問い直すところから発音について考えてみたい。

本当に発音は重要なのか

そもそも、発音が重視されるのはなぜなのだろうか。この答えは簡単である。いわゆる日本人的な発音では通じないからだ。如何に語彙が豊富でも、如何に文法が完璧でも、発音がダメでは通じないのである。

故に、発音は重要なのか、という問いに対するわたしの回答は「Yes」である。ただし、この「Yes」はあくまで「通じるか否か」というレベルの話であることに留意してほしい。

中国語の「ネイティブ発音」

ある議題について賛否が分かれる場合、その議題の定義、あるいは基準と言ってもよいが、これが人それぞれで、一定でないケースがある。これもその一例で、一言で「発音」といっても、必ずしも同じことを言っている訳ではないのだ。

中国語、というか、これは語学全般に共通するのだが、発音について話題になる場合、通じるか否か、という基準の他に、もう一つの基準が存在する。それは訛りのない標準的な発音であるか否か、俗にいうところのネイティブ発音であるか否か、というものである。

そもそもこの「ネイティブ発音」というのもおかしな表現である。一般には標準的な発音のことを指すようだが、問題は標準的な発音でないネイティブがあまりに多いことだ。これは中国語に限らないと思うが、標準的な発音で母語を話すことができる人の割合は一般に考えられているほど高くはない。多かれ少なかれ、みな訛っているのだ。

特に広大な国土を持つ中国はそれが顕著である。標準的な発音ができる人の方が少ない。しかも圧倒的に。厳密に言うならば、アナウンサーのような標準的な発音訓練を受けたことがある人ぐらいなものである。

もちろん、この「標準的」という基準もどこで線を引くかでその割合は大きく異なってくる。中国の貧困人口統計のようなものであろう。もっとも、中国の場合、この基準を多少甘くしても標準の枠内に収まる人はそれほど多くはないのだが。

発音は外見に似ている

話を戻そう。発音の重要性を語る場合、それが標準的であるか否か、についていうものであるならば、煮え切らない回答で申し訳ないが、「Yes」とも「No」とも言えない。

中国語を交流ツールとして考える場合、通じるレベルにあればその目的を達することができるのだから、それ以上のものを追求する必然性はなくなる。そんなものに時間を割くよりも、語彙数を増やしたり、語感を磨く方が有意義だ。

では、標準を目指すのはまったくの無駄だ、というと、必ずしもそういう訳でもないから話は難しい。何せ、発音が良いというのは、何かと得なのである。

多くの一般人は、往々にして発音の良し悪しでその外国人の言語レベルを判断する。「発音が上手い」イコール「外国語(中国なら中国語)が上手い」となる訳だ。付き合いが少しでも長くなれば、発音だけ上手い人の化けの皮はすぐに剥がれるものなのだが、現実には長い付き合いになることはほとんどないので、どこに行っても「中国語がお上手」と褒められることになる。

そういう意味では、発音は人の外見に似ている。外見が良い人は初対面で好印象を与えやすいものだ。だが、付き合いが長くなれば、外見よりも性格の方がずっと重要になる。語学ならば語彙力や語感の方が重要になるのと同じだ。

故に、この問いに対するわたしの回答は「その人の価値観次第」である。発音にこだわりたいのならこだわればよい。発音が良くて損することはないからだ。通じるレベルに達したらひとまず良しとして、別の項目に力を入れるのもよい。発音はイマイチでも、優れた表現力を持ち合わせていれば、一目置かれる存在となるであろう。

発音は外見に似ていると言ったが、先天的な要素が強いところもそれに似ている。苦労することなく本当にネイティブスピーカーっぽい発音を身につけてしまう人もいれば、いくら訓練してもどこか違う人もいる。これは音感の良し悪しが影響しているのではないのかと考えているのだが、確証はない。はっきりと言えることは、諦めも肝心、ということだろうか。

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