中国語「マスター」の不都合な真実

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語学の世界ではよく「マスター」という言葉が使われます。語学教材でもよく「●日で英語をマスター」「●●で中国語をらくらくマスター」という言葉を見かけますね。

で、そもそも、「マスター」とはどのようなことを言うのでしょうか。

「マスター」は英語 master のカタカナ発音です。この語彙はいろいろな語義を持ちますが、ここで言う「マスター」は「~を修得する、習得する、極める、使いこなす」の意味でしょう。要は英語なり中国語なりを「習得する、極める」ことを言います。

では何を以って「習得した、極めた」とするのでしょうか。

身近な例として?語学スクールや語学教材の体験談を見てみましょう。「英語が口をついて出てきました。」「中国語のままスッと頭に入ってきました。」「中国語がすごくお上手ですね、と中国人に褒められました。」なんて言葉が踊っています。要は会話やリスニングができたり、ネイティブスピーカーに褒められればマスターとなるのでしょうか。

別の例を見てみましょう。数十ヶ国語をマスターしたとかいう、いわゆる「語学の天才」の学習方法を紹介した本も出版されています。中を見てみると、「新聞を読めるようになった」「基本的な会話ができるようになった」ことを以ってマスターとみなしているようです。

全体的に見ると、会話ができることを以ってマスターとしているものが多いようですね。確かに英語の場合、読み書き偏重な中高学校英語教育の影響で、文章の意味は読み取れるし辞書があれば作文もなんとかできるけど会話はできない、という日本人は少なくないので、会話ができるようになれば「マスター」なのかもしれません。

ただ、その会話もどの程度の会話力を「マスター」の基準にするのかは曖昧です。挨拶や簡単な日常会話ができるようになれば良いのか、あるいはネイティブスピーカーのレベルを基準にするのか……やはり曖昧さがつきまといます。

では合否が明示される検定試験を基準にしてみましょうか。英語なら英検一級、中国語なら中検一級でしょうか。でも、もし中国語の基準を中検一級とするのなら、中国語を「マスター」している日本人は数えられるほどしかいないということでしょうか。

言ったもん勝ち

何か回りくどくなってきましたね。率直にいきましょう。「マスター」の公的基準など存在しません。「言ったもん勝ち」の概念でしかないのです。

これはよく言われることですが、基本的に外国語は「道具」でしかありません。ハイカラに「ツール」と言ってみましょうか。

「英語はツールに過ぎない。」

どこかで聞いたことがあるような言葉です。スキルとか何とかいう言葉を使うのが好きなあの業界でよく使われますね。

まぁそんなことはどうでもいいでしょう。英語にせよ中国語にせよ、ツールなのですから要を満たせばそれで良し、となります。

箸に喩えてみましょう。黄金の箸、銀の箸、鉄の箸、竹箸、いずれも箸です。その使用用途が食品をつまんで口に運ぶものである以上、どのような材料でも使用価値は同じです。ここで銀の箸は毒物を検出する、とか思ってはいけません。重箱の隅をつついてばかりいては中国語は身につきませんよ(笑)。

閑話休題。資産的価値を考慮すれば黄金の箸は鉄の箸より価値があります。ただ、食事に使うだけなら等価値です。語学もこれに然り。もし使用用途が日常会話なら、高等教育を受けた中国人レベルと、新聞は読めないけど日常会話ぐらいならできます、というレベルは等価値にしかなりません。

一方、使用用途が「中国語での商談」となるのなら、前者の中国語は価値を持ちますが、後者の中国語は実質的な価値を持たなくなります。極論すれば、中国語ができないという人と等価値ということになります。

このように、ツールとして要求されるレベルはマチマチです。ツールとして使い物になることを以って「マスター」とするのなら、そのレベルは人それぞれとなります。だから「言ったもん勝ち」なのです。