中国語「達人」の条件(下):「達人」の真実

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≪中国語「達人」の条件(中):発音と語彙と≫から続く......

表現方法

高い理想を掲げる学習者たちが「達人」を目指して日々切磋琢磨する「発音」と「語彙」。それだってこの程度のものでしかありません。もちろん発音は正確であればあるほど良く、語彙数は多ければ多いほど良いことは確かなのですが。

何を隠そうワタクシもそのような一人でした。徹底して発音を矯正し、ひたすらボキャビルに励んでいました。今になって回顧してみると、正直な話、すごい無駄なことをしていたな、と本当に思います。

言語は人の意思を伝える媒体です。最も重要になるのはその「内容」であり、その「表現方法」です。

発音や語彙は「表現方法」の一部分でしかありません。たとえどれだけ発音が美しく、また語彙が的確だったとしても、それがTPOにふさわしくない、非常識な表現であったらすべてが台無しです。

日本と中国では同じ場面でも正反対な表現をすることがしばしばあります。例えば、贈り物をする場合、日本では「たいしたものではございませんが」とか「つまらないものですが」という枕詞を使うのがセオリーですが、中国人にそんなことを言ってプレゼントを贈ったら、その中国人は間違いなくキレるでしょう。

何せ中国では贈る物がどれだけ高価なものなのか強調するのがスタンダード。贈り物の価値がそのまま贈り手の受け手に対する重要度を反映するのです。

そんな場面で「つまらないものですが」何て言うことは、自分にとってあなたは「つまらない存在でしかありませんが」と言っているのと同様です。たとえいくら発音が美しくても、また語彙や文法に瑕疵がなくても、否、発音が正確であればあるほど、また語彙や文法が的確であればあるほど逆効果になるでしょう(笑)。

内容

また、「表現方法」に問題がなくても、「内容」がなかったり、いまいちであったら意味を成しません。

「内容」については状況次第ということもあり、一言で語り尽くせるものではありませんが、敢えて一例を以ってまとめてみましょう。

私たちは嫌が上でも日本人です。中国人と交流する場合、日本や日本人のことが話題になります。日本社会、日本文化、政治経済流行etc.......あらゆるものが話題となり得ます。また、日中文化の比較や日中間の政治問題、そして敏感な歴史問題が俎上に載ることも少なくありません。

如何に発音が上手でも、また語彙力が豊富でも、これらのことを聞かれて何も話せないのでは文字通り話になりません。「中国語の達人」であって「日本の達人」ではないのだから、という反論が聞こえてきそうですが、日本人である以上これらのテーマは避けて通ることはできないのです。

専門家ではないのですから詳細にわたって論議をする必要はありませんが、少なくとも自分なりの意見なり日本における実際の現状なりを伝えることができるだけの認識は最低限必要になります。

「達人」というレベルで考えるなら、歴史問題のような敏感な話題でも堂々と中国人とやり取りできる能力が要求されるでしょう。中国人をやり込める、とかいう話ではなく、自分の歴史観がどのようなものであれ、安易に"对不起"という言葉に逃げることなく議論を進められる能力と知識があってはじめて「達人」と言えるのではないでしょうか。

知識

TPOをわきまえた「表現方法」にせよ、日本や日中間に関する話題にせよ、鍵となるのはそれらに関する「知識」となります。

中国語にはまればはまるほど発音の良し悪しや語彙数に目が行ってしまうのが常ですが、実践においては関連知識がより重要になることは少なくありません。

例えば、中国人は歴史を非常に重視します。ある意味宗教と言ってしまっても良いかもしれません。歴史故事から多くの成語が生まれ、それが現在に至るまで広く使われていることもその一つの表れです。

歴史や歴史上の人物にまつわる比喩表現は豊富です。それを知らないと意味がわからなくなる表現も少なくありません。このため、このような歴史にまつわる知識を身につけるのも中国語の高度な運用に当たって不可欠な要素となります。

成語になっているものを覚えていけば良い、と思われる方もいるかもしれませんが、相手が本当の意味での知識人だったりすると、成語として確立している範囲を超えた、本当に幅広い知識を応用した比喩表現を多用してきます。

少なくとも、このような比喩表現を聞き取って理解できることも「達人の条件」とすることができるでしょう。一歩進めて、自分がそのような比喩表現を自由自在に操ることができることを以って「達人の条件」としても良いのではないでしょうか。

発音や語彙は「達人の条件」のごく一部でしかありません。「中国語の達人」とは単なる言語としての中国語の領域に止まるものではないからです。日本人としての「中国語の達人」とは高度な言語運用能力と日本及び中国の歴史文化習俗等に関する圧倒的な知識を融合させて自在に中国人と交流することができる人を指して言う敬称なのです。

私はここに「達人」と「マスター」の相違を見出します。「マスター」とは単に発音や語彙を身につけ、中国語を運用できるようになることを指します。そして、それに加え歴史文化習俗などに関して幅広い知識を持ち、多様な比喩表現などを駆使した、言わば芸術的なレベルで中国語を運用することができる人を「達人」とするのではないでしょうか。