語学の「天才」とバイリンガル

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「達人」と「天才」

「中国語の達人」の類似するものとして「中国語の天才」という表現があります。どちらも高い中国語能力を有している人を指していう言葉ですが、その語義から立て分ければ、「達人」が後天的な努力によるものに対して、「天才」は生まれつき備わっていることを指すはずです。

そこから考えれば第二外国語は「達人」という表現の方が適切だと思います。「天才」という表現はIQがべらぼうに高くて、一度目にしたもの耳にしたものは即覚えてしまうようなケースにのみ適応するものなのですから。

まぁ実際にはこんな立て分けは言葉遊びでしかありません。「達人」と「天才」にせよ、つまるところ高い能力を持っているということです。

語学の天才

「天才」という表現はどちらかというと「語学の天才」という表現で使われる方が多いようです。多くの場合は多数の言語を「マスター」した人を指して言います。

「マスター」の定義が実は非常に曖昧であることについては『中国語「マスター」の不都合な真実』で詳述していますが、「語学の天才」たちもその多くはある程度のレベルに達したところで「マスター」として、言語数を積み重ねているケースが大半です。

もちろん「天才」の語義の通り語学において天性の才に恵まれている人もいます。会話をしているだけで話し相手の話し方、アクセント等のクセをすべてコピーできてしまう人が存在するのも確かです。

ただし、語学においてこのような「天性の才能」が大きな意味を持ってくるのは、通訳者や翻訳者等の語学のプロと言われる人たちの中でも、超一流と呼ばれるレベルにある人ぐらいなものです。

現実には、語学の天才と呼ばれる人達の大半は不断の努力によって語学力を獲得しています。

況や日常会話やビジネス会話ぐらいの語学力だったら才能も何もありません。厳しい言い方になりますが、「天性の才能」などという言葉は、努力を放棄した人が自分を慰めるために使う言葉でしかないのです。

語学の天才?バイリンガル

「天性の才能」ではありませんが、語学という観点から見て生まれつき恵まれている人たちがいます。いわゆるバイリンガルと呼ばれる人たちです。

ここでは便宜的に日本語と中国語のバイリンガルという前提で話を進めましょう。両親は日本人だけど中国で幼少期を過ごした、もしくはその逆の例だったり、日本人と中国人の間に生まれた場合など、言語習得に有利であると言われる幼少期に、より自然な形で日本語と中国語に接し、両言語を身につけた人を指して日中バイリンガルと言います。

一般に日中バイリンガルの中国語能力は、日本人中国語学習者の中国語能力に比べ高いのが普通です。これは言うまでもありませんね。そして世間一般(日本)においては、日中バイリンガルを中国語の達人(あるいは中国語の天才)と見る傾向が強くあります。

純モノリンガル国家で、四方を海に囲まれる日本では、複数の言語に精通している人の割合は極めて小さくなります。そんな日本人から見ると、日中バイリンガルは二つの言語を自由自在に操ることができる、中国語の天才に見えてしまうのも無理はないのかもしれません。

外国語ができない人から見ると、語学の世界は往々にして外国語が「できる」と「できない」の二者に分割されます。外国語ができない人は、自分の目の前で外国語を使っているその人の外国語レベルを判別する術がありません。故に二者択一としかならないのです。

ただ、およそ一つでも母語以外の言語を身につけた人なら自明の理であることなのですが、一口に外国語ができる、と言っても、そのレベルはピンからキリまで絶大な格差が存在しています。

それはバイリンガルとて同じこと。「語学の天才 バイリンガル」のイメージのみが先行してしまい、実はそのレベルはかなりマチマチであることはあまり知られていません。

バイリンガルの真実

続けて日中バイリンガルを例に話を進めます。日中バイリンガルと言っても、日本語と中国語の両言語で「モノリンガル」ネイティブスピーカーレベルという人はまれな存在です。

ここで言う「モノリンガル」ネイティブスピーカーとは日本のように単一言語で統一されている国で生まれ育った人のことを指します。日中バイリンガルと言っても、実際には「日本語メイン」か「中国語メイン」というように得手不得手があるのが普通です。どちらも均等にそこそこのレベル、というのは珍しくありませんが、どちらも均等に高レベル、という人は、実はそれほど多くありません。

家庭におけるバイリンガル教育がうまくいったか、或いは本人が意識して相当程度努力したというケースでもない限り、ただ単に二つの言語を聞いて育っただけで両言語に精通するということはまずあり得ません。一つの言語に精通するというのは、一般に考えられているほど簡単なことではないのです。

英中バイリンガル教育を行っているシンガポールの例を引くとわかりやすいかもしれません。シンガポール社会は大半が華人(中国系)で構成されていますが、社会的には英語と中国語の二言語を公用語指定しており、学校における言語教育でも英語と中国語の二言語が採用されています。

幼い頃から二つの言語に接しているので、子供たちは皆英語中国語共に使えます。いわゆるバイリンガルというやつですね。ただ、英語もしくは中国語の単一言語を採用している国(米国・英国・中国等)の同年齢の子供たちの英語(もしくは中国語)レベルと比較すると、その言語運用能力は明らかに劣ります。

もちろん個人差はあり、両言語共に高いレベルの子供も存在します。ただ、それはその生徒がたまたま優秀だっただけで、そのようなバイリンガル環境にあれば、誰でも自然に二つの言語に精通できる、という訳ではないのです。

このように、バイリンガルと言えど、その言語能力がいかほどのものなのかを知るには、その教育レベルを見る必要あります。バイリンガルは幼少期に言語に接しているだけあって発音は上手ですが、論理立てて言論を展開する能力は体系立った教育を受けない限り身に付かないからです。

なまじっか発音が上手なため一見すると高レベルに感じられますが、論理性が要求される文章を書かせると途端に馬脚を現します。言語というものはそういうものなのです。

これまで論じてきた」「マスター」「達人」の基準に判ずるなら、大半のバイリンガルは日中両国語マスターでしょうが、達人の「た」の字にも満たないのが現実ではないでしょうか。

と、なんだかんだ書いてきましたが、それでも語学においてバイリンガルは有利であることは確かな事実です。中国語のように発音が重要になる言語の場合はなおさらでしょう。

ただ、ここで言いたいことは、たとえバイリンガルであっても、一つの言語を身につけるには、それ相応の後天的な努力が必要になるということです。

......前置きのつもりだったんですが、思いの他長くなってしまいました。本題は次回へ持ち越します。